ほぼ縁を切っている身内についてです。
自分が幸せでないと、周りの不幸を願う人です。
子供に対してもお前だけ幸せになるのは許さないと言うような人です。
自己中で被害妄想がひどく、粘着質な人で、ドロドロの感情だけでできているのではないかと感じます。
関わるとこちらのメンタルがやられるので、老人施設に入った後は、最低限の手続きをするだけで没交渉です。
なんとか連絡を取ろうとしてきますが、会うなんてとんでもない。
大量に送られてくる手紙をたまに流し見しますが、それでもエネルギーを吸い取られるような気持ち悪さです。
こちらから関わりを持たなくなった今でも、大声を上げて暴れていた時の事を夢に見てうなされます。
恨みがましく粘着質な人なので、死んだら悪霊になって取り付いてくるのではないかと不安になります。
馬鹿げているかもしれませんが、改名して別人になれば見つからないだろうかと考えるほど、生きてる今も、今後死んだ後も、恐怖の対象です。
どう考えたらいいのかアドバイスをお願いします。
お二人とも回答ありがとうございました。
公共の場なので詳しくは書けませんが、今回の相談の原因となってる人に対してあるのは「恐怖」と「生理的嫌悪」です。
許せないとかそういう怒りのような激しい感情とも違う気がします。
私には慈しんでくれた親族がいました。
亡くなる時に、私の身内のことを心配していました。
その人も私の身内に暴力振るわれてたんですけどね。
私が身内に対して最低限の手続きを続けているのは、亡くなった親族を安心させるためです。できることには限りがあるので、それは申し訳ない限りですが。
在家さんの論では、親族は身内との縁が切れたかもしれません。
親族にとっては縁が切れることがいいことなのか悪いことなのかわかりませんが、もう暴力を振るわれないのであれば、私にとっては気が楽になります。
恐怖も生理的な嫌悪もなかなか理性では御しがたく、自分のことながら上手くいきませんが、恐怖がありもしないものを見せてしまうことがあるということはよく覚えておきたいと思います。
ありがとうございました。
スピ系と仏教の違いですが、前者は「起こることに全て(自身を成長させるための)意味がある」といい、後者は「原因がある(縁起、因果応報など)」と説きます。これは近いようにみえて大きな違いです。仏教は、生まれたことに意味があるとは説きません。
縁があって出会っても、それが自身にとって安全なものとは限りません。虎にかみ殺される飼育係のニュースもたまに眼にしますよね。動物も生き物も同じ「生命」です。何らかの縁あるが故、現世で関わりが生じていますが、自身の業(カルマ)も善と悪があるため、いいもの・わるいものどちらでも現象が発生します。
業は現象を起こせばその分は無くなります。現象に対して怒りや欲を起こすと、それは業ですので、また現世、あるいは来世以降でまた現象を発生させます。業はただの「力」ですので、そこに意味はありません。
日本は人間が平和ボケしてしまっており、仏教界隈も、「仏教」と称してお花畑な持論を展開しているケースも多々見られます。嘆かわしいものです。
自分の身体と心を守るのがまず大事なことです。危険なものから離れるのは知恵です。恐怖に囚われることがないよう、頑張ってください。
一般的に「相手は自分を映す鏡」です。
嫌な相手というのは、自分の嫌な性質を相手を通して見せられています。
気になって仕方がないのは相手の性質ではなくて、実は自分自身の性質なのです。
だから自分と気が合う人は、嫌な性質を共有していないことに気が付くはずです。
あなたが相手を許せるようになった時が、宿敵との関係の完成であり、その時にその人との縁も消滅します。
それまでは生まれるたびに縁は繰り返されて、自分で勝手に縁を切ることはできません。
勿論死後は一緒になって、生前のように逃げることができなくなります。なにせ神出鬼没の世界ですから。
世界中で起きている戦争も同じです。
相手の悪口ばかり言って自分は棚上げします。
そして相手をねじ伏せて支配します。
その縁は繰り返されて、次は相手から支配されるようになります。
そこから抜け出るには、自分が相手と同じであることに気付いて、まずはそんな自分を許すこと。
そうすれば相手も許せるようになります。
それが見えざる世界の仕組みです。
1つ、何よりも認識しておいた方がいいのですが、人は、恐怖心を持っていると、道端に落ちている縄も蛇に見えます。暗闇の中で蒟蒻が肌に触れれば、幽霊だと思います。心で有りもしないものも認識してしまうということを、心に刻んでおいた方がよいです。
仮に、悪い霊が存在するとしたら、逆に善い霊もいるということになります。表があれば裏もあるからです。
悪い霊が心配なら、善い霊があなたを護りたくなるようにしたらよいのではありませんか。
簡単ではないかもしれませんが、自分が助けてもらえるだけの行為・生き方をしてきているという自信があれば、御先祖や神々が護ってくれると思えて、少しは安心できるのではないかと思います。

具体的な状況がわかりませんので、一般的なお話しかできないのですが、人間にはその人に必要なことしか起きないんですよ。
偶然起きることは何もありません。
これは私の論ではなくて、私たちを取り巻く知られざる法則です。
「袖すり合うも他生の縁」といいますが、人の出会いには必ず意味があります。
あなたが恐怖を感じ嫌悪する人と出会うことにも、必ず意味があります。
その人を避けてその人から逃げれば、必ず追いかけられるはずです。
それは相手の執着が強いからではなくて、自然の法則なのです。
死んだあと追いかけられたくないのではありませんか。
避けるのではなく、嫌なことでも真摯に向き合うことが本来望まれることです。
それは決して我慢することではありません。
あなたが相手を否定しなければ嫌悪も恐怖も生じません。
否定的な思考習慣が嫌悪と恐怖を引き起こして、それが神経症になります。
あなたは自分が神経質だと思ったことがありませんか?
それぞれの感じ方によって、嫌悪や恐怖は何倍にも何十倍にも膨れ上がるのです。
否定せずに向き合うというのは「受け容れる」あるいは「抵抗しない」ということで、仏教では「あるがまま」や「自然法爾(じねんほうに)」といった言葉が使われます。
熱意次第ですが、縁があれば導かれるでしょう。