仏教ではあらゆる現象や心の働きもすべては実体が無いと説かれます。サンスクリット語の「カルマ」は漢訳して「業」とも言われますが、元々は身体・言葉・心作用の行為行動のことであり、それ自体に善も悪もありません。ただ、インド思想では「業」の結果は潜在的力として直接・間接に未来に影響するとも考えられています。その結果は苦しみとなるか、安楽となるか、どちらでもないかということになりますが、それは個人の感受の次元です。仏教での善悪は倫理的・道徳的次元で語られる部分も少なからずありますが、究極的には個人の実存的次元での苦楽の原因として問題にされます。
ですから、「悪いカルマ」「良いカルマ」というように実体視していると、そこに執着が生じてしまい、返って拘りが起こって苦しみが続くことになりかねないと思います。現象は心も含めて実体が無いというのは、すべて因(直接原因)と縁(条件・環境など間接原因)が複雑に絡み合い、瞬間瞬間に立ち現れては変化し続けているからです。このことを時間的に捉えると「諸行無常」といい、空間的に捉えると「諸法無我」といいます。そして実体性がないことを「空」とか「空性」というのです。
実生活の次元においては、縁としての親の影響は決して小さいものではありません。しかしながら、あなたが今まで生きてこられて接触した縁は他にも無数にありますよね。また、これから生じる縁も無限の可能性としてあるのです。仏教では過去の悪しき業でさえ「諸法の実相(迷いの現象世界の奥にある真実の姿、すなわち空性)」を正しく観察すれば草の葉に付いた朝露が日光に当たり消えてゆくように、速やかに消除すると説かれます。
「幸福」とは万人共通の何か実体的に得るものではなく、現在の自身の在り方や身の回りとの関係から感じ取るものです。「こうでなければならない」というのは法律と道徳的に最低限のマナーぐらいにしておいて、今のご自身の感性に素直になってみては如何ですか?具体的には、やりたいことの優先順位をよく吟味して、他人(親も含めて)の意見や惰性でしてきたことをいったん保留するのです。そうすると、今の瞬間の縁がみえてきます。何をしていいかわからなければ無理して探さなくてもいいです。「今」をよく観察してみましょう。気づかなかった縁が沢山見つかるはずです。無理に「良い人」や「幸せな人」「成功した人」になる必要はありません。なるべく心穏やかに苦しみ少なく生活が出来るようになれば、自ずとやりたいこと、やるべきことが見えてくることでしょう。波のない水面が鏡の様に他を映し出すように。
少々難しい表現で説明して申し訳ありませんが、なるべく正確に仏教での考え方を伝えて参考にして頂こうと思いました。
